With The Beatles
IT WON'T BE LONG
ALL I'VE GOT TO DO
ALL MY LOVING
DON'T BOTHER ME
LITTLE CHILD
TILL THERE WAS YOU
PLEASE MISTER POSTMAN
ROLL OVER BEETHOVEN
HOLD ME TIGHT
YOU REALLY GOT A HOLD ON ME
I WANNA BE YOUR MAN
DEVIL IN HER HEART
NOT A SECOND TIME
MONEY
60年代最も真似されたと云われる、あまりにも有名なアルバムジャケット。・・に対して収録曲を思い浮かべようとするとパッと出てこないのはわたしだけ?顔半分が影になっているモノクロ写真は、ビートルズがハンブルグで知り合った女性写真家アストリット・キルヒヘルがよく使っていた手法で63年の8月、セカンド・アルバムのジャケット撮影を急っつくジョージ・マーティンから連絡を受けたエプスタインが写真家のロバート・フリーマンを伴ってビートルズを訪ねた時にメンバーがアストリッドの写真を見せて「こういう風にやってくれ」と言ったのを受けて撮影された。カーテンを降ろし背景を暗くしたホテルの食堂で撮影は行われ、リンゴだけが下に映ってるのは彼が最後にメンバーとなったため。リンゴは食堂の椅子の上に中腰で立っている。収録曲には当時のメンバーが影響を受けていたアメリカのモータウン・サウンドやR&Bのカバー曲が6曲とオリジナルが8曲。アルバム全体が黒っぽくデビュー前の彼ら、つまりワル(ジョン)の匂いがする。ファースト・アルバムの「プリーズ・プリーズ・ミー」はたった一日のセッションで(10時間)録音されたが、このセカンド・アルバムは3ヶ月の間にコンサートやTV出演の合間を縫ってレコーディングされたため、メンバーにもゆとりが生まれ、曲のアレンジや録音方法、
オリジナル曲のクォリティが格段に進歩している。シングルとなる予定だった1曲目の「イット・ウォント・ビー・ロング」はイントロなしでいきなり歌い出し、アイドル時代のトレードマーク「ヤーヤー」のかけ声が聞かれるなど彼らの特徴が顕れてきた。同じようにイントロのないポールの「オール・マイ・ラヴィング」はジョンの有名な3連のバッキング・ギターとポールの軽快なウォーキング・ベースが最高な曲でシングルとして発売すれば大ヒット間違いなしだと思うのだが、アルバムとシングルは別物と考えていたビートルズはさらに強力無比な「抱きしめたい」をシングル曲として用意していた(スゴい〜)。アルバムは英国チャートの1位にあった彼らのファースト・アルバムとバトンタッチするように初登場1位を記録、その後21週間も居すわり続け、63年のチャートのトップはほぼ1年間ビートルズが君臨した。ビートルズの現れるところどこまでも大洪水のように押し寄せる発狂寸前の何百人ものファンをマスコミは「ビートルマニア」と呼び、王室主催のロイヤル・ヴァラエティー・ショーに出演したビートルズは上流階級の観客を前にして(エリザベス女王やマーガレット王女を前にして)、「安い席の人は拍手を、その他の人は宝石をジャラジャラ鳴らして!」と言っておどけてみせたジョンの言葉にニヤニヤした(ステージへ上がる前にジョンが叫んでいた「おまえらのクソいまいましい宝石をジャラジャラ鳴らしやがれ!」という言葉に比べればそれはまだ紳士的な挨拶だった)。女王はビートルズと会話をし「あの方たちが一番面白かったわ」と後で語った。リバプール出身の4人組のロック・バンド、ザ・ビートルズは今や社会現象となりイギリス全土を揺るがしながら、次に極めるべき山の頂を見つめていた。
A HARD DAY'S NIGHT
A HARD DAY'S NIGHT
I SHOULD HAVE KNOWN BETTER
IF I FELL
I'M HAPPY JUST TO DANCE WITH YOU
AND I LOVE HER
TELL ME WHY
CAN'T BUY ME LOVE
ANY TIME AT ALL
I'LL CRY INSTEAD
THINGS WE SAID TODAY
WHEN I GET HOME
YOU CAN'T DO THAT
I'LL BE BACK
1964年2月、ビートルズは初めてアメリカを訪問、学校を休んだ学生を含む3000人のファンがJFK空港で彼らを出迎えた。人気テレビ番組「エド・サリバン・ショー」では728人分のチケットに対して5万5千人の応募があり、ビートルズは3週連続で出演したが、最初の週には7300万人がこの放送を見つめ72%と云うアメリカのテレビ史上最高の視聴率を上げた。番組放送中はアメリカの青少年による犯罪率が0になったとさえ云われている。シングル「抱きしめたい」がチャートの1位を飾り、それを皮切りに4月にはビルボードの1位から5位までをビートルズの曲が独占、100位以内に14曲を送りこんだ。当時、ケネディ大統領の暗殺に沈んでいたアメリカはビートルズの快進撃をブリティッシュ・インベージョン(イギリスによる侵略)と呼んだ。イギリスへ帰国したビートルズは初の主演映画「ア・ハード・ディズ・ナイト」の撮影に入る。(映画のタイトルはなかなか決まらず「ビートルマニア」、「ムービング・オン」、「トラベリング・オン」など次々と現れては却下され、ポールの提案した「フー・ワズ・ザット・リトル・オールド・マン」に決まりかけていたがさらに意見は分かれ、ある日の終わりにリンゴがポツリと漏らした言葉「ああ、本当にきつい一日だった」で片がついた)
監督はリチャード・レスターでこれは彼にとって長編第一作目の仕事でもあった。脚本を書いたアラン・オーエンはビートルズのイギリス・ツアーに2日間同行し、彼らの日常を描いたドキュメンタリー風の作品に仕上げることにする。映画製作会社はビートルズを一過性の人気のあるバンドと見なしていたためカラー化など予算を掛けなかったのだが、これが返っていい結果を生むことになる。モノクロ画面に映し出されるビートルズのメンバーは生々しく生き生きとしていて彼らの日常を本当に追いかけているような気分を観客にもたらした。ジョージ・ハリソンは撮影中、恋に落ちた。それは、撮影初日のビートルズが電車で移動しているシーン。制服を着た女子学生を演じているパディ・ボイドという美しい少女と出会ったのだった。
アルバム「ア・ハード・ディズ・ナイト」は撮影の合間を縫ってレコーディングされ、収録された13曲全てがレノン=マッカートニーによるオリジナル曲という、当時としては革新的な作品。リンゴの漏らした言葉が映画のタイトルになると知ったジョンは”タイトル曲はもらった!”とばかり大急ぎで帰宅すると作曲を初め、次の日「ア・ハード・ディズ・ナイト」をひっさげてスタジオへ現れた。この曲のオープニング・コードは一度聴いたら忘れられないほど印象的だ。ポールの「キャント・バイ・ミー・ラヴ」はアルバムの先行シングルとして発売されイギリスでは予約だけで100万枚を突破し初登場1位、アメリカでは1週間で200万枚売れ、ビルボードのトップに5週間居坐り続けた。アルバム全体を通してジョンのブルースっぽい匂いがぷんぷんする。が、ポールも優れたバラード曲「アンド・アイ・ラヴ・ハー」でやがて世紀のメロディー・メイカーとなる片鱗を見せ始めた。このアルバムからパーカッションやコーラスを生かしたアレンジが随所に見られるようになる。まさに初期のビートルズを代表する1枚。1964年発表。
BEATLES FOR SALE
NO REPLY
I'M A LOSER
BABY'S IN BLACK
ROCK AND ROLL MUSIC
I'LL FOLLOW THE SUN
Mr.MOONLIGHT
MEDOLEY:
a)KANSAS CITY 〜b)HEY,HEY,HEY
EIGHT DAYS A WEEK
WORDS OF LOVE
HONEY DON'T
EVERY LITTLE THING
I DON'T WANT TO SPOIL THE PARTY
WHAT YOU'RE DOING
EVERYBODY'S TRYING TO BE MY BABY
1年の間に2枚のアルバムを発売するというレコード会社との契約のため、ビートルズは大忙しだった。クリスマス商戦の発売に向け、映画「ア・ハード・デイズ・ナイト」が公開されてから間もない1ヶ月後の1964年8月中旬には、このアルバムのレコーディングが開始され、その間に初の本格的なアメリカ・ツアーを含む60回以上のライブ演奏に加えてラジオやテレビなどの出演を精力的にこなし、10月後半にレコーディングが終了するまでの2ヶ月半にビートルズの4人がスタジオに入ったのはたったの8日間だけだった。プロデューサーのジョージ・マーティンが「4人はくたびれ果てていた。成功はすばらしいが同時にひどく疲れるものだ」と後年語っているのもアルバム・ジャケットに映るひどく冴えない4人の表情を見ると肯ける。独創的なオリジナル曲が魅力のビートルズだが、さすがにシングル2曲を含めオリジナルでアルバムを埋めることは出来ず、かつてハンブルクの盛り場で荒くれた船乗りたちを相手に毎日8時間ぶっ通しで演奏していた頃の(マネージャーのブライアン・エプスタインと出会う前のザ・ビートルズ。汗まみれのレザーに身を包み大量のアンフェタミンをビールで胃に流し込みながら、ジョン・レノンが「よく聴けよ!この糞ナチ野郎!」とがなり立てていた時代の)カバー・ナンバーで残りのレコードの溝を埋めることにしたのだった。彼らのオリジナル曲も変わりつつあった。特にジョン・レノンの曲にはボブ・ディランの影響が色濃く反映され、アイドルとしてファン受けする曲調から徐々に自分自身を見つめた内省的な歌詞を持つ影のある曲が多くなっていた。「アイム・ア・ルーザー」では「おれは負け犬〜ピエロみたいにはしゃいでいてもこの仮面の下にはしかめっ面が潜んでいる」とジョンの本音がうかがえ、これは翌年5月にレコーディングされるジョンの作品「ヘルプ!」の前奏曲のように感じ取れる。ポールの曲はよりアレンジに重点が置かれるようになり、ビートルズにとって第2作目の映画「エイト・アームズ・トゥ・ホールド・ユー」の主題歌(後に映画の題名が「ヘルプ!」となる)として書かれたこの曲のメロディ・センスやフェード・インから始まるユニークなアレンジは後のポールの作風を十分予感させるものがある。収録されたカバー・ナンバーではチャック・ベリーの名曲「ロックン・ロール・ミュージック」がジョンの迫力あるヴォーカルで際だっている。1964年発表。
REVOLVER
HELP!
THE NIGHT BEFORE
YOU'VE GOT TO HIDE YOUR LOVE AWAY
I NEED YOU
ANOTHER GIRL
YOU'RE GOING TO LOSE THAT GIRL
TICHKET TO RIDE
ACT NATURALLY
IT'S ONLY LOVE
YOU LIKE ME TOO MUCH
TELL ME WHAT YOU SEE
I'VE JUST SEEN A FACE
YESTERDAY
DIZZY MISS LIZZY
「ヘルプ!」はジョンが最も愛したビートルズ・ナンバーだった。ジョンはこの曲をディラン風にスローでシンプルな曲に仕上げたかったのだが、出来上がってみるとスピーディーなロック・ナンバーに変わっていた(このアレンジもわたしは大好きですが)。アイドルとして頂点を極めたビートルズ。ジョンは自分のバンドがもはや制御不能に陥った怪物となってしまったことに圧迫感を覚え苦しんでいた。ジョンはこの頃のことを皮肉を込めて’太ったエルビス時代’と呼んでいる。「ヘルプ!」はジョンが本音を歌った最初期の曲だった。
当時大ヒットしていたボンド映画の出来の悪いパロディのようなビートルズにとって2作目となる映画のタイトルは当初「エイト・アームズ・トゥ・ホールド・ユー」だったが、撮影の半ばで「ヘルプ!」に変更されたのはビートルズが「もう勘弁してくれ!」と心の底から叫んでいるようにも感じ取れて興味深い。後にポールは「ビートルズ映画にゲスト出演したようなもの」とこの映画のことを語り、ジョンに至っては「ただのゴミだ」と言ってのけた。制作側も乗り気でなく単に契約をこなすための仕事だったようだが、監督のリチャード・レスターの趣味性が出たちょっと笑えるワン ポイント・ギャグやビートルズの演奏シーンが印象的なのが救いだった。世界で一番カバーされた曲「イエスタデイ」はポールの代表作であり、二十世紀のスタンダード・ソングとしてあまりにも有名な曲だが、この曲はポールが1965年5月のある日、自宅の屋根裏部屋(恋人のジェーン・アッシャーの家族が住む家の屋根裏部屋に居候していた)で寝ていたら夢に現れた曲だった。突如として降って湧いたメロディにポールはベッドから飛び起きるとピアノの前に座り、コードをつけていった。まだ歌詞のないこの曲にポールは「スクランブル・エッグ」と名づけ、顔を合わす人たちに唄ってみせると「この曲を知ってる?」と訊いた。「ヘルプ!」の撮影中もスタジオのピアノで時間が出来ると繰り返し弾いていたので、周りのスタッフは気が狂いそうだった。「イエスタデイ」はアメリカのラジオで600万回以上もオンエアされた。アルバム全体を通して、楽曲のレベルは上がり、ポールが書きなぐって一発録りした「ザ・ナイト・ビフォア」ような曲でさえ、並のグループが作るヒット曲のレベルを超えている。
ストレスから過食症気味になり、太りだした体型を気にするあまり急なダイエットを始めたジョンはドラッグで憂さを晴らしそして溺れていくことになる。1965年発表。
REVOLVER
DRIVE MY CAR
NORWEGIAN WOOD(This Bird Has Flown)
YOU WON'T SEE ME
NOWHERE MAN
THINK FOR YOURSELF
THE WORD
MICHELLE
WHAT GOSE ON
GIRL
I'M LOOKING THROUGH YOU
IN MY LIFE
WAIT
IF I NEEDED SOMEONE
RUN FOR YOUR LIFE
ファンの金切り声は相変わらず津波のように押し寄せてきていたが、巨大なスタジアムには空席が目立つようになっていた。ジョンのキリスト発言は狂信者たちの怒りを買い、ある場所ではナチスが行った焚書のようにビートルズのレコードが焼かれた。メンフィスではKKKの団員から脅迫状が送りつけられる中でコンサートが行われステージに爆竹が投げつけられた。ビートルズのメンバーは疲れ果て、ライブ好きなポールでさえもう終わりにすべきだと確信したのだった。「ラバー・ソウル」はこれまでのアルバムと比べるとはっきりとした違いが分かる。明るく活発な4人はこのアルバムで金切り声を上げて泣き叫ぶファンに別れを告げ、食い尽くされたアイドルという殻を破って飛び出していったのだった。彼らは思いのままに曲作りにのめり込んでいった。前作で「ヘルプ!」と叫んでいたジョンはより内面を見つめた曲を書くようになった。アルバムに流れるアコースティックな雰囲気はボブ・ディランからの影響も大きい。ジョンの「イン・マイ・ライフ」はこの後に続く彼の作品を予感させる美しい曲。ポールはモータウン・サウンドなどの影響からよりファンキーなベースを弾くようになり各曲でこれ以上はないほどハマっていてユニークなフレーズを聴かせている。一年の間に二枚のアルバムを製作するという契約のため、ツアーの合間に短い休暇を取ったビートルズは、新曲のストックがほとんどない状態から一ヶ月間でこれほどの傑作アルバムを完成させた(シングルになった二曲を含めて!)が、さすがに時間が足りず、アルバムの収録時間を埋めるために前作「ヘルプ」からボツになった曲「ウエイト」が使われたのでした。1965年発表。
REVOLVER
TAXMAN
ELEANOR RIGBY
I'M ONLY SLEEPING
LOVE YOU TO
HERE,THERE AND EVERYWHERE
YELLOW SUBMARINE
SHE SAID SHE SAID
GOOD DAY SUNSHINE
AND YOUR BIRD CAN SING
FOR NO ONE
DR.ROBERT
I WANT TO TELL YOU
GOT TO GET YOU INTO MY LIFE
TOMORROW NEVER KNOWS
いっさいのライブ活動をやめたビートルズはアビーロード・スタジオに籠もり様々なレコーディング・テクニックを試していった。もはやライブで再現することを考える必要のなくなった彼らの作品はそれまでの常識を次々と覆していく。クラシックからアヴァンギャルドまですべてに夢中だったポールは「ヒア・ゼア・アンド・エブリホエア」や「エリナー・リグビー」、「フォー・ノー・ワン」という信じられないほど美しい曲を書くようになった。ジョンの曲「トゥモロー・ネバー・ノウズ」は最も実験的な試みがなされたとてもシンプルな曲でCコードだけで書かれている。ジョンは、千人のチベット僧が山頂で合唱しているようなサウンドにしたいと思っていた。逆回転やポールが自宅で作成したテープ・ループを曲に貼りつけていくコラージュ的な手法(かもめの鳴き声はポールの笑い声を逆回転したものだ)はLSDにのめり込んでいたジョンのイメージを甦らせる。インド音楽に夢中だったジョージはシタールやタブラを取り入れ旋律までそのままの曲を書くようになった。ロックというジャンルに多様性をもたらした最初期の作品。1966年発表。
Sgt.Pepper's Lonely Hearts Club Band
SGT.PEPPER'S LONELY HEARTS CLUB BAND
WITH A LITTLE HELP FROM MY FRIENDS
LUCY IN THE SKY WITH DIAMONDS
GETTING BETTER
FIXING A HOLE
SHE'S LEAVING HOME
BEING FOR THE BENEFIT OF MR.KITE!
WITHIN YOU WITHOUT YOU
LOVELY RITA
GOOD MORNNIG GOOD MORNING
SGT.PEPPER'S LONELY HEARTS CLUB BAND
(RIPURISE)
A DAY IN THE LIFE
EMIからニュー・シングルを急っつかれたジョージ・マーティンは仕方なくジョンの「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」とポールの「ペニー・レイン」をこのアルバムに収録するのをやめて差し出した。シングル曲がアルバムに収録されていたら…ちょっと恐いような気がする。多くの人たちがザ・ビートルズの最高傑作と呼ぶ「サージェント・・」。当時としては何から何まで新しい試みの連続だった。スタジオを無制限に使えた彼らはこのアルバムのために800時間をかけた。アルバム・ジャケットではそれまでの体制を葬る葬儀のために彼らが選んだ60人の有名人や友だちの写真と共に並び、裏ジャケットには収録曲の歌詞が載せられた。それぞれの曲は前作をさらに発展させたものだが、このアルバムにはメンバーの幻覚剤の使用が大きく反映されている。それは後にポールが「サージェント・・をもう一度作るなんて簡単さ。LSDをやればね」と語っている通り。この作品からビートルズの主導権はポールが取るようになり、ジョンはヨーコ・オノというアーティストに出会ったことでちがう道を歩み始める。アルバム中もっとも素晴らしい作品は「ア・ディ・イン・ザ・ライフ」だろう。アルバム全体を通してポールの弾くベースが冴えわたっている。コンセプト・アルバムという形式をメンバーは否定しているが、「サージェント・・」のスタイルは後に登場する多くのプログレッシブ・バンドの原点となった。1967年発表。
MAGICAL MYSTERY TOUR
MAGICAL MYSTERY TOUR
THE FOOL ON THE HILL
FLYING
BLUE JAY WAY
YOUR MOTHER SHOULD KNOW
I AM THE WALRUS
HELLO GOODBY
STRAWBERRY FIELDS FOREVER
PENNY LANE
BABY YOU'RE A RICH MAN
ALL YOU NEED IS LOVE
マネージャーのブライアン・エプスタインが死んだ。ビートルズがライブ活動をやめてから彼は次第に手持ちぶさたになっていた。ある日、スタジオに顔を見せたブライアンはコントロール・ルームから録音中の曲についてジョンに意見したがジョンの言葉は冷たかった。「あんたは金の計算でもしてればいいんだよ!ブライアン」…。彼の死因は睡眠薬の過剰摂取によるものとされている。ポールの家に集まったメンバーは今後、自分たちのことは自分たちでやっていくことに決めたのだった。まずポールのアイデアによる1時間のテレビ映画を完成させること。それは老若男女様々な人たちを一台のバスに乗せ、当てどもなく旅をしながらトリップするというものだった。・・結果はビートルズに取って初めて味わう挫折となった。現在から見ればとても斬新な場面や前作以上に作り込まれた楽曲など、ミュージック・ビデオの先がけ的な作品なのだが、当時のマス・メディアはまさにこてんぱんにこの映画を叩きのめした。
映画は無計画すぎたものの、サウンド・トラックには優れた曲が収録された。とくに映画の発案者であるポールのアレンジングが際だっている。タイトル曲の「マジカル・ミステリー・ツアー」は旅の始まりを告げる明るいブラスの音から、テープ・コントロールされた凝ったコーラスが絡み、ポール独特のポップなメロディーで耳を離さない曲となっている。「フール・オン・ザ・ヒル」もポールのペンによる曲。美しいメロディにガリレオをイメージしたという歌詞が見事にハマっている。「フライング」はメンバー全員が作曲にクレジットされたインストナンバー。少し前に流行ったドラムン・ベースのご先祖様のような曲調。「ユア・マザー・シュッド・ノウ」もまたポールの曲だがここでもいかにもポールらしい愛らしいメロディー・ラインが効いている。そしてジョンの「アイ・アム・ザ・ウォルラス」。この曲を聴いたポールは衝撃を受けたと云われる。シュールでナンセンスな歌詞、たたみかけるようなジョンのあちらへイッてしまったようなヴォーカル。発狂したアレンジ。ここ一発と云うときの時のジョンはほんとにすごい。1967年発表。
THE BEATLES
BACK IN THE U.S.S.R.
DEAR PRUDENCE
GLASS ONION
OB-LA-DI,OB-LA-DA
WILD HONEY PAE
THE CONTINUING STORY OF BUNGALOW BILL
WHILE MY GUITAR GENTLY WEEPS
HAPPINESS IS A WARM GUN
MARTHA MY DEAR
I'M SO TIRED
BLACKBIRD
PIGGIES
ROCKY RACCOON
DON'T PASS ME BY
WHY DON'T WE DO IT IN THE ROAD?
I WILL
JULIA
BIRTHDAY
YER BLUES
MOTHER NATURE'S SON
EVERYBODY'S GOT SOMETHING TO HIDE
EXCEPT ME AND MY MONKEY
SEXY SADIE
HELTER SKELTER
LONG,LONG,LONG
REVOLUTION 1
HONEY PIE
SAVOY TRUFFLE
CRY BABY CRY
REVOLUTION 9
GOOD NIGHT
ビートルズ初の2枚組みアルバム。タイトルもなく真っ白なジャケットにTHE BEATLESの文字が刻まれ、初回プレスには限定ナンバーが印刷されていた(写真はこのアルバムの30周年を記念して発売された紙ジャケットの復刻CD)。アルバム・タイトルがないことから、いつの間にかファンの間では「ホワイト・アルバム」と呼ばれるようになったが、当初は「ドール・ハウス」というタイトルでアルバム・ジャケットも決まりかけていた。「リヴォルバー」から前作までの特徴だったサウンド・エフェクト類を駆使し凝った曲作りから一転して、アルバム全体にアコースティックな雰囲気に満ちた作品となっている。レコーディングも以前のようにメンバー全員が一緒になってアルバムを練りあげていくこともなくなり、各自の趣味性がはっきりと現れた良い意味でバラエティに富んだ内容となっているが、反面、ソロの寄せ集めという気がしないでもない。アコースティックな曲が多いのは、この頃ビートルズが傾倒していた、マハリシ・マヘシ・ヨギという宗教家のもとで超越瞑想なるものを学ぶためインドへ滞在していた時に書き上げた曲が多いからで、過密なスケジュールから解放された彼らは50曲以上の曲を作曲して帰ってきた。
ビーチボーイズ風のコーラスが楽しいポールの「バック・イン・ザ・U.S.S.R」やレゲエのリズム取り入れた「オブ・ラ・デ、オブ・ラ・ダ」、ドノバンから教わったスリー・フィンガー・ピッキングが美しいジョンの「ジュリア」、エリック・クラプトンがソロを弾いたジョージの「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」、複雑な構成ながらその後のジョンの作品を予感させる「ハッピネス・イズ・ア・ウォーム・ガン」や「ヤー・ブルース」、ポール独特のツー・フィンガー・ピッキングがテクニック的にもかなり巧い「ブラック・バード」や「マザー・ネイチャーズ・サン」、小気味よいロックン・ロール・ナンバーの「バースディ」、えっこれがポール?と疑いたくなるほど、うるさく耳障りな演奏でありながら、最高にかっこいい「ヘルター・スケルター」、ジョンがLSDを決め、仰向けになって(写真が残っている!)ヴォーカルをレコーディングした「レボリューション 1」、ヨーコにインスパイアされたサウンド・コラージュの大作「レボリューション 9」はポールの反対を無視してアルバムに収録された。ちなみに数字の9はジョンのラッキー・ナンバー。
「曲を厳選して1枚にしていたら傑作になっただろう」とプロデューサーのジョージ・マーティンは語っているが、楽曲云々もさることながら、メンバーの間に深い溝が出来てしまったのがこのアルバムを散漫にした一番の原因だろう。スタジオの険悪な雰囲気に堪えかねて、リンゴは「バック・イン・ザ・U.S.S.R」のレコーディング途中でビートルズを抜けている(一週間で戻ってきたが)し、エンジニアのジェフ・エメリックも「もうたくさんだ!」と言い放ってスタジオを飛び出して行き帰らなかった。このアルバムを境にジョンとポールの不仲は決定的になり、他のメンバーも近い将来訪れるであろう、別れを頭に入れ、自分のめざす道を模索するようになる。
YELLOW SUBMARINE
YELLOW SUBMARINE
ONLY A NORTHERN SONG
ALL TOGETHER NOW
HEY BULLDOG
IT'S ALL TOO MUCH
ALL YOU NEED IS LOVE
PEPPERLAND
SEA OF TIME
SEA OF HOLES
SEA OF MONSTERS
MARCH OF THE MEANIES
PEPPERLAND LAID WASTE
YELLOW SUBMARINE IN PEPPERLAND
映画配給会社ユナイテッド・アーティスツとザ・ビートルズは3本の映画を製作する契約を交わしていたので、ビートルズは「ヘルプ!」に続く映画の脚本家を探していた。郊外の静かな邸宅で平和な時間を過ごしていた他のメンバーと違い、ポール・マッカートニーだけはロンドンに住み、スウィンギン・ロンドンと呼ばれた狂騒のまっただ中に身を置いて、流行の最先端にぶら下がっていた演劇やコンサートに毎夜通いつめていた。ブリジッド・バルドーが出演をアプローチしてきたと云われる3作目の最有力候補、アレキサンドリア・デュマの「三銃士」を退け、ビートルズはポールと親交のあった劇作家ジョー・オートンのブラックな戯曲「アップ・アゲインスト・イット」を選んだ。だが、性倒錯と暴力に満ち溢れ、複雑な心理描写を要求するこのコメディを、それまで「モップ頭のイカした4人組」がカメラの前で笑ったりポーズを取っているだけで仕上げられた映画のようにうまくいく筈がなく、最終的にこの脚本もポシャったのだった。アニメ映画「イエロー・サブマリン」はアメリカで放送されていたビートルズのアニメ・シリーズの製作者、アル・ブルックスがブライアン・エプスタインにビートルズの長編アニメの製作を持ちかけたことから始まった。ビートルズにしてみれば、ユナイテッド・アーティスツの契約を果たすためもあったし、ディズニー映画が大好きなポールは自分の作った曲「イエロー・サブマリン」を題材にしたら面白いと提案、ただしビートルズは製作にかかわらないことを条件にゴーサインを出した(この頃のビートルズ特にポールは自分たちの新しい会社アップルにまさに夢中だったので映画どころではなく、ビートルズが画面に登場することという契約のため仕方なく映画のラストに4人が登場しポールの曲「オール・トゥゲザー・ナウ」を紹介する場面を撮った)。
「イエロー・サブマリン」は1年をかけて50万枚におよぶ原画を元に完成。プレミアにはビートルズの4人も出席した。スクリーンに映し出される色鮮やかなキャラクターたちや幻想的な場面の数々、「愛こそはすべて」と謳った芸術的な完成度の高さを見て、ビートルズはこの愛すべきアニメーション映画にもっと深くかかわっておくべきだったと後悔したと云われる。アルバム「イエロー・サブマリン」に収録されたビートルズの新曲は4曲。時代が新らしくなる度に再評価され今やビートルズのサイケデリックな時代を代表する曲として人気の高いジョージの「イッツ・オール・トゥ・マッチ」と「オンリー・ア・ノーザン・ソング」は「サージェント・ペパー」でお蔵入りとなっていた曲。ジョンの「ヘイ・ブルドッグ」は「ヘイ・ブルフロッグ」という未完成の曲をスタジオに持ち込んだところ、発音が「ブルドッグ」に似ているのをポールがからかい、その場で出来上がった曲。ジョンの狂気を感じさせるヴォーカルがいい。ポールの「オール・トゥゲザー・ナウ」はわずか6時間でレコーディングされた遊び心いっぱいの曲。発表された新曲はすべて「サージェント・ペパー」の捨て曲みたいなものだが、それでも印象深く耳に残るところはさすが。