i.o.u (ALLAN HOLDSWORTH) 1982 |

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70年代、多くの名ギタリストを輩出したブリティッシュ・ロックシーンにおいて、彗星のごとく現れ、それまでのギター・プレイの領域を極限にまで広げたアラン・ホールズワースは、ハンマリング・オン(第一音目だけをピッキングし、次の音からは弦を叩いて音を出す)を多用した恐ろしく高速で、しかも一糸乱れることのない正確なレガートや、手のひらを限界まで広げた複雑怪奇なポジションで弾かれる浮遊感溢れるコードプレイ(これは本作「i.o.u」辺りから聴けるようになった)は後に登場するテクニカルなギター・ソロを標榜するギタリストたちに大きな影響を与えたのだった。アラン自身は多くの人が褒め称えようが、持ち上げようが、貶そうが我関せずの人でデビュー以来、独自の道を歩んできたが、あまりにもシャイで頑固(ジョン・ウェットン曰く、アランはステージでスポットライトが当たると一歩退くような男だ)の性格のために度々レコード会社と衝突、曲はあるのにレコーディング出来ず、自身も影響を受けたと表明しているエディ・ヴァン・ヘイレンがレコード契約させようと、アラン・ホールズワースとコンタクトを取るため探したところ、その当時、稼ぎのなかったアランは自分のギターを売り払い、ロンドンの楽器屋でアルバイトをしているところを発見されたというスゴイ逸話もある。少年の頃、アマチュアのサックスプレイヤー(ピアノも弾いたらしい)だった父親から音楽理論とジャズを学んだアランは(アラン自身、ジョン・コルトレーンの熱狂的なファンでギターで彼のサックスプレイ「ジャイアント・ステップス」をコピーしていたら今のスタイルが出来たと語っている)地元のクラブで演奏しているところをスカウトされ、ロンドンへ。1969年にイギンボトムズ・レンチというジャズとポップスが融合したようなサウンドのバンドでアルバム・デビューしている。1971年ロニー・スコット・ジャズ・フェスティバルで金賞を獲得、審査員のロバート・フリップに絶賛され、1972年コロシアムのドラマー、 ジョン・ハイズマンとハードなジャズ・ロック・バンド(というよりスケールの大きなハード・ロック)、テンペストを結成。アランが注目を浴びだしたのはこの頃からだ。テンペストをアルバム一枚で脱退した後、実験的なサウンドでアンダーグランド・シーンに君臨していたソフト・マシーンに参加。だがこれもフュージョン色の濃い傑作アルバム「バンドルス」を発表した後に脱退。彷徨えるギタリスト、アラン・ホールズワースが次に出会ったのが、革新的な天才ジャズ・ドラマー、トニー・ウィリアムスだった。渡米したアランはニュー・トニー・ウィリアムス・ライフタイムに参加。バンド解散までに2枚のアルバムで壮絶なソロ・プレイを展開。アランの名は世界に知れ渡ることになる。この間に初のソロ・アルバム「ベルベット・ダークネス」を発表・・だがこのアルバムは全く注目されずに終わった。ライフタイム解散後、アランは多くのバンドからゲスト・プレイヤーとして招かれレコーディングに参加する。ゴング、ジャン・リュック・ポンティらのアルバムで弾きまくった1977年、アラン・ホールズワースはイエス、キング・クリムゾンというブリティッシュ・プログレッシブ・ロックのメジャー畑を渡り歩いてきたドラマー、ビル・ブラッフォードのファースト・ソロ・アルバム「フィールズ・グッド・トゥ・ミー」に参加。変拍子を多用する個性的なビル・ブラッフォードのドラムとベースの概念を打ち破るフレーズを聴かせるバークリー出身のジェフ・バーリン(この人のベースはまるでシーケンサーみたい)、非常にカラフルな音色を綴るキーボーディストのデイヴ・スチュワート、そしてフリー・ジャズの歌姫アネット・ピーコックの自由奔放なヴォーカル(心臓を鷲掴みにされるような?)、ここでのアランのプレイは速さだけでなくロックしており、楽曲にうまくブレンドしたメロディがあり、その音色はとても艶めかしくセクシーだ。ファースト・ソロにおいて傑作をモノにしたビル・ブラッフォードとミュージシャンズ・ミュージシャン(ミュージシャンが憧れるミュージシャン)としてもギタリストを目指す少年たちの目から見ても最高峰の頂きに達しようとしていたアラン・ホールズワースは78年、ジョン・ウェットン(キング・クリムゾン)、エディ・ジョブソン(ロキシー・ミュージック、フランク・ザッパ)らとU.K.を結成。テクニック志向でありながら、ジョン・ウェットンのメロディ・センスに加え、ヴィジュアル面でも絵になるバンドとしてファースト・アルバム「U.K.」は本国イギリスを始め、日本でも大ヒットし、多くのファンを獲得した。順調な出だしに見えたU.K.もすぐに内部分裂してしまう。ポップな所謂売れ筋を狙う、ジョン・ウェットンとエディ・ジョブソンに対してジャズ的(変拍子を多用したテクニカルなフュージョン・ミュージック)なアプローチを極めたい、ビル・ブラッフォードとアラン・ホールズワースが対立。ビルとアランは U.K.を脱退し、ブラッフォードを結成する(U.K.には馬鹿テク・ドラマー、テリー・ボジオが加入)。元の鞘に収まった二人はアルバム「ワン・オブ・ア・カインド」を発表。緊張感溢れる研ぎ澄まされ計算し尽くされた楽曲群は、フュージョン全盛の時代にあって傑作と評価される。そしてアランはブラッフォードを脱退。注目されお金が入って来る矢先にバンドを脱退するというハチャメチャ感がアランらしいが、自分のプレイを100%表現したいという欲求が募っていたと見れる。ここからアラン・ホールズワースの貧乏時代が始まるのだった(尤もブラッフォード自体もアラン・ホールズワース脱退後、アランのそっくりさんギタリスト、ジョン・クラークを入れ活動を続けるが次のアルバム発表後、ツアーでオルガンを運ぶ資金がなくなり解散している)。自分のやりたい音楽が必ずしも世間に受けいれられるとは限らず、アランの結成したバンド、フォルス・アラーム(後のi.o.u)はレコード契約が取れずに四苦八苦することになる。結局バンドはアルバムを自主製作することを決意し、アランは身の回りのモノを売り払い(スタジオ、ギター等々)何とか資金をかき集めアルバム「i.o.u」発表する。ちなみにi.o.uとは借金借用証書のこと(^_^;) にっちもさっちも行かなくなったアランに救いの手が差し伸べられる。かつてアランの奏法を研究し、左手を極限まで使ったコードフォームと超絶的に速いポジション移動に付いていけず、右手で届かない音を押弦したことから、あの有名なライト・ハンド奏法が生まれたと語っていたヴァン・ヘイレンのギタリスト、エディ・ヴァン・ヘイレンだった(右手でフレット上の弦を叩く奏法はエディが最初ではないが、ギターの奏法で当り前のプレイとして全世界に広めたのは間違いなくエディ・ヴァン・ヘイレン)。当時、ワンステージ3億円とも云われた超人気ギタリストの彼はワーナー・ブラーザーズにアランと契約するよう働きかける。ワーナー側はミニ・アルバム の製作に同意。1983年、アラン・ホールズワースは晴れてメジャーレーベルから「ロード・ゲームス」を発表する。プロデューサーのテッド・テンプルマンとヴォーカルの差替えで揉めたものの、強力なサポート・メンバー(ベースにジェフ・バーリン、ドラムにフランク・ザッパ門下生のチャド・ワッカーマン)のお陰もあり、内容もセールス的にも優れたアルバムとなった。再びシーンに返り咲いたアランはチャド・ワッカーマン、ベーシストのジミー・ジョンソンとバンドを結成しツアーへ。アルバムも毎回超絶技巧の強者ミュージシャンを集めコンスタントに発表するようになった(日本へも度々来日するようになった)。80年代半ばからアランはシンタックスというギター型のシンセサイザー(MIDIコントローラー)を使い始める。このギター?を使うことによってサンプリングされた様々な楽器の音も操れるようになったのだが、ファンの間からは以前のようにもっと本物のギターを弾いてくれと云う声が多かった。90年代に入ってもアラン・ホールズワースは誰も到達の出来ないギタリストのカリスマとして君臨し新たなファンを増やし続けている。アラン本人といえば相変わらずマイペースの我関知せずで、自分にとってギターの新しい可能性を模索し続けている。変わったところではビートルズのトリビュート・アルバムに参加して名曲「ミッシェル」をホールズワース流にアレンジして弾きまくったり(途中からミッシェルだか何だか分からなくなる・・が、素晴らしく格好良い演奏)、96年には最もジャズ寄りのアルバム「ナン・トゥー・スーン」を発表。敬愛するコルトレーンのナンバーを筆頭にジャズのスタンダードやまたしてもビートルズの「ノルウェイの森」を演奏している。21世紀、アラン・ホールズワースも50歳を超え、最近の写真を見ると白髪が目立ち始めてすっかりおじちゃんになってしまったが、ギターの腕だけは未だに神が憑いている。これから先60いや70になってもまったりと落ちつかず、ギター・キッズの口をポカンと開けさせ、一流ギタリストも憧れの目(半ば呆れた目?)で見る、ミュージシャンズ・ミュージシャンであり続けてほしいと思う。 |
