ロバート・デ・ニーロ 出演作品

1963/1969(劇場公開) 御婚礼 ザ・ウェディング・パーティ
・花婿の友だち。ギャラは50ドルだった(最新作では1000万ドル)。レンタルビデオで見ました。当時19歳のデ・ニーロは少しポッチャリとしているが、この映画のために体型を変えたのかも知れない。
1968 ブルーマンハッタンU 黄昏のニューヨーク
・盗み撮りが趣味の青年。
1969 ザ・スワップ
・若い映画監督。もとは「Sam's Song」というタイトルだったが後に編集され「ザ・スワップ」と云うタイトルで公開される。デ・ニーロは回想シーンにだけ登場する。
1970 血まみれギャング・ママ
・麻薬中毒の息子ロイド。ロケ地のアーカンソーで方言を学ぶ。麻薬中毒者の雰囲気を出すため10キロ以上体重を落とす。テレビで何度か放送されました。夕日を背景に孤独なロイドが麻薬の注射を打つシーンが心に残った。殺されたロイドの埋葬シーン、デ・ニーロは共演者たちに知らせず墓穴に入り上から土をかけさせた。映画中、墓穴を覗いた共演者たちが驚いているのは演技ではない。
1970 ブルーマンハッタンT 哀愁の摩天楼
・ベトナムから帰って来た盗み撮りが趣味の青年。
1971 わが心の天使
・麻薬漬けのタクシー運転手(-_-;)
1971 生き残るヤツ
・すぐにキレる警官
1971 まっすぐ撃てなかったギャング
・イタリアのバイクレーサー。役のためにわずかな蓄えをはたいて、イタリアへ行きシチリア訛を身につけた。この頃から、デ・ニーロが批評家の注目を浴び出す。
1973 バング・ザ・ドラム
・ちょっと間の抜けた野球選手。ホジキン病(悪性リンパ腫)に冒された役柄のため、撮影前にカメラの前で気分が悪くなるまでぐるぐる回った。小さな田舎の野球チームという設定なのでアトランタ近くの田舎町にアパートを借りた。地元で服を買い、訛を覚える。噛み煙草をやる役柄のため、自分も噛み煙草を始め体に合わず気分が悪くなる、それでも撮影期間中はずっと噛み続けた。吐き気をもよおすにはどれぐらい指を口に入れれば良いかワンテイクに40回以上試す。ニューヨーク批評家協会賞助演男優賞を授賞。
1973 ミーン・ストリート
・リトル・イタリーに住むイかれたチンピラ。デ・ニーロとマーティン・スコセッシの出会い。主人公のハーヴェイ・カイテルがまだおっさんじゃない!
1974 ゴッドファーザーPARTU
・若き日のヴィトー・コルレオーネ。当初、若い日のヴィトー・コルレオーネもマーロン・ブランドが演じる予定だった(法外なギャラを要求されたために断念)。デ・ニーロはリサーチに18ヶ月かけた。語学学校でシチリア語の基礎を固める。その後、テープレコーダーを持ってシチリアに渡り地元の住民から方言を学ぶ。ブランドのヴィトー・コルレオーネを徹底的に研究した。前日の撮影の時と、眉毛の数が違うとメイク係に注文をつけるほどだった。アカデミー最優秀助演男優賞を授賞…が、デ・ニーロは会場に姿を現さなかった。
1976 1900年
・裕福な地主の御曹子。フランス人俳優のジェラール・ドパルデューと共演。
1976 タクシー・ドライバー
・ベトナム帰りで不眠症のタクシー運転手。ニューヨーク市庁舎でタクシーの運転免許を更新する(デ・ニーロは何年か前にタクシーの運転免許を取得していた。「わが心の天使」撮影時かも知れない)。その後2週間、タクシー運転手としてマンハッタン界隈を流す。体重を15キロ落とす。当時12才のジョデイ・フォスターがドラッグ漬けの娼婦役で出演。そのジョディ・フォスターのヒモとなっているのが、ハーヴェイ・カイテル(いかん、本当に危ないこの人!)。監督のマーティン・スコセッシがワイフの浮気現場をデ・ニーロが運転するタクシーの後部座席から観察する男の役で出演。有名な鏡の前で銃を向けたデ・ニーロが自分に問いかけるシークエンス「俺に用か? そうなのか? 誰に言ってるんだ? 俺しかいないぞ」は全て即興。ニューヨーク批評家協会賞主演男優賞を受賞。アカデミー最優秀主演男優賞ノミネート。カンヌ映画祭グランプリ。
1976 ラスト・タイクーン
・ハリウッドの凄腕プロデューサー。大物俳優たちとの共演(ロバート・ミッチャム、レイ・ミランド、トニー・カーティス、ジャンヌ・モローなど)、ジャック・ニコルソンとの共演。デ・ニーロの役(30年代ハリウッドの凄腕プロデューサー、アーヴィング・G・タルバーグがモデル)はダスティン・ホフマン、アル・パチーノが断ったために回ってきた。デ・ニーロがスーツ姿のエリートを演じるのは珍しい。スクリプトに「妻の死から立ち直れずにいるやせ細った54キロのタイクーン」とあるとおり19キロ体重を落とす。1999年、第71回アカデミー賞において特別名誉賞を受賞し物議を呼んだエリア・カザンが監督(授賞の様子は異様な雰囲気だった。ステージで涙ぐむマーティン・スコセッシとロバート・デ・ニーロに迎えられたエリア・カザンをある者はスタンディング・オベイションで拍手を送り、ある者は椅子に座ったまま不機嫌そうに腕を組んで横を向いた。エリア・カザンは50年代に吹き荒れた赤狩り運動で非米活動委員会に呼ばれ、共産党員だったかつての仲間たちを密告した。そのことで彼をハリウッドの裏切り者として捉える者が今なお多くいる)。
1977 ニューヨーク・ニューヨーク
・サックスプレイヤー。ライザ・ミネリと共演。初めてのミュージカル。ジャズクラブに通いつめ雰囲気をつかみながら、プロのサックスプレイヤーについて特訓する。日に6時間サックスの練習をし、映画中の曲を完璧に吹けるまでに上達した。
1978 ディア・ハンター
・心を病んだベトナム帰還兵。撮影前の6週間をペンシルバニア州の鉄工所がある労働者の町で過ごす。労働者たちと交流し、彼らの言葉遣いや生活習慣を学ぶ。鉄工所で働こうとしたが断られた。撮影に入るまで自分をボブと名乗り、町の人間は誰1人として、その男がデ・ニーロだとは気づかなかった(髭面だったせいもあるだろう。免許証をニューヨーク州からペンジルバニア州へ書き換える。ペンシルバニア州で銃のライセンスを取得。メリル・ストリープと共演。アカデミー最優秀主演男優賞ノミネート。自らこれまでで最高の演技と語る。
1980 レイジング・ブル
・元ボクサーのコメディアン。デ・ニーロが演じたジェイク・ラ・モッタは世界チャンピオンにもなった実在のボクサー。ボクサー役のために体を鍛え上げたデ・ニーロは、撮影の進行に合わせて大食いをし、最後には体重を30キロ近く増やした(おいおい、死んじゃうぞー、デ・ニーロ)。体を鍛えるにあたって、シルベスター・スタローンのトレーナーとラ・モッタ自身がコンサルタントとしてデ・ニーロについた。ニューヨークのジムで毎日半年間、スパーリングをこなし首まわりの筋肉を5センチも太くした。そしてチャンピオンに輝いたシーンを撮り終えると撮影は4ヶ月中断された。その期間にデ・ニーロは落ちぶれてぶくぶくに太ったナイトクラブの芸人になりきるため、イタリアへ飛び、あらゆるレストランで食いに食いまくった。体重は68キロから97キロに増加。アカデミー最優秀主演男優賞受賞。
1981 告白
・神父。ロバート・デュバルと共演。1940年代の神父らしさを出すために、宗教アドバイザーの下、日夜カソリックの教義をラテン語で学ぶ。デ・ニーロの役に対するうち込み方は前作、「レイジング・ブル」で元ボクサーのジェイク・ラ・モッタから「本物のボクサーにも劣らない」と賞賛されたように、この映画で指導に当たった神父も感嘆し、「デ・ニーロは映画史上最も真実味のある司祭だ」と語った。
1983 キング・オブ・コメディ
・コメディアン志望のストーカー。ジェリー・ルイスと共演。コメディアンの独演会に通いつめる(数少ない友だちの、ジョン・ベルーシやロビン・ウィリアムスのアドバイスも大いに助けとなった)。50年代を代表する喜劇俳優ジェリー・ルイス(ディーン・マーチンとコンビを組んだ喜劇底抜けシリーズが有名)が家に招待するが「それはいい考えではないと思う」とにべもなく断る。ルイスがデ・ニーロに対して激高するシーンで、ルイスの怒りが足りないと感じたデ・ニーロは、撮影前にルイスを呼び、反ユダヤ人的な言葉で罵った。おかげでルイスは怒り心頭、納得のいくシーンが撮れた。ルイスもデ・ニーロもお互いを尊敬していた。
1984 ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ
・ニューヨークのギャング。もとは227分だった上映時間を会社側の要求で143分に短縮したためにアメリカでの公開時には全く違ったイメージの作品になってしまった。オリジナルのロング・バージョンはヨーロッパで公開され傑作との評価を得た。ラスト、阿片窟で阿片を吸い、不気味な笑いを浮かべるシーンは本当にトリップしている。壮大なセットが話題に。
1984 恋に落ちて
・建築技師。初めて普通のタイプの人間を演じた。デ・ニーロは普通の人間を魅力的に見せる演技は、「レイジング・ブル」のジェイク・ラ・モッタを演じるよりもある意味で難しいと語る。念願だったメリル・ストリープとの再共演。
1985 未来世紀ブラジル
・謎の配管工。初めてのSF映画出演。ロンドンでの撮影。デ・ニーロの出演するシーンは短いが、主役のジョナサン・プライスをハイテンションな演技で完全に食ってしまっている。関係ないけど私の大好きな映画です(^_^)/゙
1986 ミッション
・奴隷商人。初めての歴史ドラマ。典型的なニューヨーカーで現代の病んだ部分を演じてきたデ・ニーロが18世紀の人物を演じられるのか話題となった。現地のインディアンの人たちを演技指導し、出演料として7万5千ドルが支払われた。盗賊対策として、コロンビア政府はマシンガンを装備した護衛隊を24時間体制で配置した。カンヌ映画祭グランプリ。
1987 エンゼル・ハート
・悪魔。ミッキー・ロークと共演。爪を異様な長さに伸ばし、髪はポニーテール、そしてもじゃもじゃの顎髭を蓄える。ミッキー・ロークと握手するシーンでは、いつもながらの即興で必要以上に長くロークの手を握りしめ、妖しげな視線で見つめ続けてロークを狼狽えさせる。この映画の後、デ・ニーロはしばらく舞台に戻る。
1987 アンタッチャブル
・アル・カポネ。この時期、「黄昏に燃えて」の出演以来があったが考えた末に断っている。この映画のデ・ニーロの役はジャック・ニコルソンが演じた。デ・ニーロと打ち合わせのために彼と初めて会ったプロデューサーは、デ・ニーロがどう見てもアル・カポネには見えなかったので心配になり、監督のブライアン・デ・パルマに忠告したが、デ・パルマは「まあ、見てろよ」と答えた。カポネに関する資料は完ぺきに揃っているとスタッフが止めるのも聞かず、デ・ニーロはイタリアへと姿を消した。5週間後戻ってきたデ・ニーロは体重を14キロ増やし、ナポリ育ちの陽気で荒々しい男に変わっていた。本当はもっと太りたかったデ・ニーロ、カポネを演じるにはまだ肉づきが足りないとスーツの下にラテックスのボディ・スーツを着用した。理髪店で1週間毎日7時間掛けて、カポネの顔写真どおりに毛を抜いていった。アル・カポネに関する数百の資料を読んでいるうちに、カポネが身につけていたというシルクの下着の注文先を見つけだしたデ・ニーロは、早速その店へ注文、下着は画面に映らないのだが、撮影の間だけ身につけていた。デ・ニーロの登場シーンは6回、撮影期間は2週間だったが彼はリサーチに3ヶ月掛けた。この頃は何故かプロモーションに積極的で日本にも度々来日していました。ニュースステーションに出演したデ・ニーロは久米宏のインタビューに答えて、話題となった髪を抜いたエピソードを話した後に「今後はこういう役作りはしないと思う」と語っていました。別のインタビューでも「体重を増やすのは大変だった。もうやりたくないね」と語っています。
1988 ミッドナイト・ラン
・賞金稼ぎ。この頃、ペニー・マーシャル監督の「ビッグ」への出演を熱望していたが最終的にトム・ハンクスが演じた。相棒のチャールズ・グローディンの役はシェールやロビン・ウィリアムスも候補に上がった。プロモーションのために引っ張り出されたデ・ニーロ、記者たちはインタビュー嫌いの彼から何か得ようと矢継ぎ早に質問を浴びせたが、デ・ニーロの煮え切らないのらりくらりとした返答に欲求不満を募らせ、いっそ何もなかった方がよかったと思わせたのでした。この映画のプロモーションのために来日したデ・ニーロ、何と村上龍のトーク番組に登場。終始笑顔でやりとりをしていましたが、よくよく考えると素顔の彼はどこにもなく映画の登場人物がテレビに出て喋って行ったという感じなのでした。
1989 ジャック・ナイフ
・精神を病んだベトナム帰還兵。エド・ハリスと共演。この頃から、マンハッタンのトライベッカに自らの映画制作会社を設立するための資金集めにさほど重要ではない映画にも出演するようになる。
1989 俺たちは天使じゃない
・脱獄囚。ショーン・ペンと共演。デ・ニーロが製作総指揮を務めた初めての作品。
1990 レナードの朝
・カタレプシー(緊張病)の患者。ロビン・ウイリアムスと共演。ブルックリンの精神病院で4ヶ月間に渡って撮影が行われた。ウイリアムスともつれあうシーンで彼の肘がデ・ニーロの鼻を直撃。デ・ニーロは鼻の骨を折ってしまうが、顔が腫れ上がってしまってからでは撮影が出来ないから「続けよう」と彼が云ったので、撮影はそのまま続けられた。
1990 アイリスへの手紙
・文盲の男性。ジェー・フォンダと共演。
1990 グッドフェローズ
・NYのギャング。10年ぶりにマーティン・スコセッシ監督の映画に出演。当時無名のテレビ俳優レイ・リオッタを主役に抜擢した。
1991 真実の瞬間
・赤狩りに巻き込まれる脚本家。マーティン・スコセッシと共演(^◇^;)
1991 バックドラフト
・元消防士の放火犯罪調査官。デ・ニーロが演じるリムゲールは実在の火災捜査官。デ・ニーロは立て込んでいるスケジュールの合間を縫って数週間リムゲールと一緒に行動し火災現場で焼けこげた屍体の検死に立ち会った。そしてシカゴの火災調査局に同行し火災現場を25カ所も訪れた。「彼はすっかり役になりきっていたので、我々は彼が俳優だということを忘れていた」とシカゴの消防隊長は語っている。
1991 ケープ・フィアー
・復讐に燃える犯罪者。デ・ニーロとスティーブン・スピルバーグの共同企画で当初はスピルバーグが監督する予定だったがスケジュールの都合で実現せず、マーティン・スコセッシに監督を頼み込んだ。オリジナル版(1962年)に出演したグレゴリー・ペックとロバート・ミッチャムが特別出演している。デ・ニーロにイジメられる弁護士役は最初ロバート・レッドフォードが演じることになっていた。デ・ニーロは自分が演じるマックス・ケイディのように知的で冷酷な犯罪者を観察するべく南部の刑務所へ足を運んだ。全力で役になりきるデ・ニーロ・アプローチは健在で短期間で全身の筋肉を鍛え上げた。全身に彫られた宗教的な意味合いの異様な刺青はさすがのデ・ニーロもメイクで我慢した。アカデミー賞助演男優賞ノミネート。
1992 ミストレス
映画の出資者。ハリウッドの映画製作内幕モノ。当初脚本は全く売れなかったが(どう見ても金にならない)、デ・ニーロが設立したトライベッカ・プロが買い上げ製作された。デ・ニーロは興行収入を上げるために出演。
1992 ナイト・アンド・ザ・シティ
・弁護士。またもやリメイク作品(俺たちは天使じゃない。ケープ・フィアーに続き)。オリジナルは1950年の「街の野獣」。この時期デ・ニーロが設立した映画製作会社トライベッカ・プロを軌道に乗せるためあまり重要でない作品に次々と出演、試行錯誤しているのが分かる。
1993 恋に落ちたら
気の小さな警官。ビル・マーレーと共演。撮影中マーレーがあまりにもふざけるので、デ・ニーロが激怒!。デ・ニーロがハイペースで作品に出過ぎる(それも冴えない作品ばかり)と批判が相次ぐ。私生活でも子供の親権を争って裁判が続いていた。スーパーモデルのナオミ・キャンベルと交際。
1993 ボーイズ・ライフ
・少年の継父。少年役にはレオナルド・ディカプリオ(彼はこの作品が自分のデビュー作だと言い張っている)。映画会社トライベッカ・プロの社長兼製作、トライベッカの高級レストラン経営、初の映画監督、私生活のトラブルなど目まぐるしい忙しさの中で、デ・ニーロは少年時代から続けてきた役作りをしっかりと守っていた。ギャラが50ドルだったデビュー作以前から役のために洋服ダンスが一杯になるほど古着屋で服を買い、その一つ一つを身につけては写真に撮って持ち歩いていたが、この作品でもワンシーンの衣装を決めるのに200着ものジャケットに袖を通して監督を驚愕させた。主人公について何百カ所も小さなデータを書き込んだ分厚いファイルを持って原作者のトビアル・ウルフを訪ねたデ・ニーロは「ドワイト(デ・ニーロが演じる)がバス・ルームから出るときはどんな格好をしていた?腰にはタオルを巻いていたか?それともバスローブを着ていたのか?部屋の中を裸足で歩いたか?」など学者のようにウルフに訊いた。原作に(まるで儀式のように毎回同じ仕草で煙草に火をつけた)の記述があるが具体的にどんな風だったのかしつこく訊きだしたあげ句、家にあったビデオカメラを借りてウルフが煙草に火をつける動作を撮影するとテープを持って帰った。完成した映画を見た原作者のウルフはデ・ニーロが細部まで継父(主人公のドワイト)にそっくりなので深い感銘を受けた。
1993 ブロンクス物語
1994 フランケンシュタイン
1995 カジノ
1995 ヒート
1996 ザ・ファン
1996 スリーパーズ
1996 マイ・ルーム
1997 ウワサの真相/ワグ・ザ・ドッグ
1997 コップランド
1997 ジャッキー・ブラウン
1997 大いなる遺産
1998 RONIN
1998 コーザ・ノストラ
1999 フローレス
1999 アナライズ・ミー
2000 ザ・ダイバー
2000 ミート・ザ・ペアレンツ
2001 スコア
2001 15ミニッツ


参考文献 ロバート・デ・ニーロ 挑戦こそわが人生 メディアックス/映画を生きる男 ロバート・デ・ニーロ シンコーミュージック